日本のヘアスタイルの歴史:時代と共に移り変わる美意識
- 2025/10/18
- 春日ブログ
はじめに
日本のヘアスタイルは、単なる流行の移り変わりを超え、その時代の文化、社会情勢、そして人々の美意識を色濃く反映してきました。古くは自然な垂髪から、精緻な結髪、そして現代の多様なスタイルに至るまで、日本の髪型は独自の進化を遂げています。本稿では、日本のヘアスタイルの歴史を時代ごとに深く掘り下げ、その変遷と背景にある文化的な意味合いを考察します。特に、各時代の特徴的な髪型や、それがどのように人々の生活に根ざしていたのかを詳細に解説し、日本の美の追求がどのように髪型に表現されてきたかを明らかにします。
古代のヘアスタイル:自然と権威の象徴
日本のヘアスタイルの起源は、古墳時代にまで遡ります。この時代、男性の間では「総角(みづら、美豆良)」と呼ばれる髪型が主流でした。これは、髪を二つに分け、それぞれを耳の横で上下に丸める特徴的なスタイルです。出土した埴輪などからもその存在が確認されており、当時の人々の生活に深く根ざしていたことがうかがえます。一方、女性の髪型については、江戸時代の「島田髷」に似た形であったとされています[1]。
奈良時代に入ると、中国文化の影響を強く受け、女性の髪型は「高髻(こうけい)」や「双髻(そうけい)」といった中国風の結髪が取り入れられるようになりました。これは、髪を高く結い上げ、より装飾的な要素が加わったスタイルであり、当時の国際的な交流が髪型にも影響を与えていたことを示しています[1]。
平安時代には、日本の美意識が確立され、特に女性の髪型は「垂髪(たらしがみ/すべしがみ/すいはつ)」が主流となりました。これは、長く豊かな黒髪をそのまま垂らす非常にシンプルなスタイルですが、「黒髪は女の命」と称されるように、長く艶やかな黒髪が美人の絶対条件とされました[2]。髪の長さがそのまま女性の美しさを表す時代であり、髪を耳に挟むことは品がないとされ、「耳挟み」として嫌われました。この時代、子供たちは「振分髪」や「尼そぎ」といった髪型をしており、男児は「みづら」を結うこともありました。12歳から16歳頃になると、男女ともに成人を祝う儀式が行われ、男性は髻(もとどり)を結い冠をかぶる「初冠(ういかぶり)」、女性は「裳着(もぎ)」の儀式で髪上げを行い、お歯黒や引眉を施しました。これらの儀式は、それぞれの成人の証であり、社会的地位を示す重要な意味合いを持っていました[1]。庶民の男性は、前髪を後ろに撫で付け、髪を後ろで引き結ぶか髷を作る「総髪」という髪型をしていました[1]。
中世から近世への移行:結髪文化の発展
鎌倉時代から室町時代にかけては、髪を束ねたり結ぶスタイルが徐々に広がり始めました。そして安土桃山時代後期には、日本髪の原型が形成され始めます。特に16世紀末(天正頃)に結われ始めた「唐輪髷(からわまげ)」は、日本髪の原型の一つとされています[2]。この時期は、それまでの垂髪から、より複雑な結髪へと移行する重要な転換点となりました。
江戸時代:日本髪の黄金期
江戸時代は、日本のヘアスタイル史上、最も多様で華やかな時代でした。特に女性の髪型である「日本髪」は、独自の進化を遂げ、その種類は数百種にも及んだと言われています[2]。年齢、職業、地域、身分、未婚・既婚といった様々な要素によって結う髪型が異なり、一目見ればその女性がどのような背景を持つか判別できるほどでした。江戸時代前期には、公家や上級武家の女性は依然として垂髪を保っていましたが、女歌舞伎や遊女たちが「兵庫髷」「島田髷」「勝山髷」といった新しい髪型を結い始め、これらが一般市民にも広まっていきました。さらに「笄髷(こうがいまげ)」が加わり、日本髪の代表的な4つの基本形がこの時期に確立されました[2]。男性の髪型では、「総髪」や「丁髷(ちょんまげ)」が一般的でした。丁髷は武士の象徴であり、その結い方にも様々な流派が存在しました[1]。
明治以降:西洋化と多様性の時代
明治時代に入ると、日本は急速な西洋化の波に洗われます。明治政府は1871年に「断髪令」を発布し、男性の髷を切り、短髪にするよう奨励しました。当初はなかなか浸透しませんでしたが、明治天皇が自ら範を示すことで「ザンギリ頭」が文明開化の象徴として民衆に広まっていきました。「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という狂歌が流行したことからも、その影響の大きさがうかがえます[1]。一方、女性の髪型はしばらくの間、江戸時代と変わらず日本髪が主流でしたが、1883年の鹿鳴館建設を機に、上流階級の女性の間で洋装と共に西洋風の髪型が取り入れられるようになりました。1885年には、日本髪の不便さ(結うのに時間と費用がかかる、不潔、不経済など)を批判する「婦人束髪会」が結成され、西洋婦人の髪型を参考にした「束髪(そくはつ)」が大流行しました。「イギリス結び」や「西洋上げ巻き」など様々なスタイルが考案され、女性が自分で髪を結い、寝る時にほどくことができる実用性が支持されました[3]。しかし、日清戦争後は日本髪風の結い方も流行するなど、明治時代は日本髪から束髪へと移行する過渡期であったと言えます。また、バリカンが普及し始め、丸刈りや八分刈りといった短い髪型が定着しました。相撲の力士の髷は、断髪令の例外として認められました[1]。
大正時代から昭和戦前期にかけては、女児の間で「おかっぱ頭」が主流となりました。大人の女性の間でも、髪を肩にかからない程度に切りそろえる「断髪」が広がり、結い上げないスタイルが一般的になります[1]。しかし、第二次世界大戦直前から戦中にかけては、髪型にも大きな規制が課せられました。1939年には「パーマネントはやめましょう」というスローガンでパーマが事実上禁止され、1943年2月からは男性に対して「国民頭髪型」が定められるなど、個人の自由な髪型は制限されました[1]。
戦後、日本の社会が復興する中で、ヘアスタイルも再び多様化していきます。少年の髪型は丸刈りや坊ちゃん刈りが一般的でしたが、1950年代頃からはGIカットやリーゼントといった欧米の流行が若者の間で人気を博しました。成年男性の間では、七三分け、オールバック、角刈りなどが多く見られました[1]。1970年代から1990年代初頭にかけては、アイドルブームが到来し、「健太郎カット」や「聖子ちゃんカット」といったパーマとカットを組み合わせた髪型が大流行しました。また、女性の社会進出に伴い、手入れが楽な「ソバージュ」も同時期に流行しました[1]。
平成時代に入ると、1990年代には人気歌手やヴィジュアル系バンド、カリスマ美容師の影響により、ヘアカラーやハイブリーチ、シャギースタイルなど、より個性的で自由な髪型が流行しました。男性の間でも、リヴァー・フェニックス、レオナルド・ディカプリオ、キアヌ・リーブスといったハリウッドスターや、江口洋介、木村拓哉などの日本の芸能人の影響で、長髪(ロン毛)が流行し、後ろで髪を結うスタイルが時代のアイコンとなりました[1]。
現代のヘアスタイル:多様性と自己表現
令和の時代、ヘアスタイルは性別や年齢、社会的規範にとらわれず、個人の多様な価値観と自己表現の手段として、さらに自由な広がりを見せています。SNSの普及により、国内外の最新トレンドが瞬時に共有され、ヘアカラー、パーマ、カット技術の進化も相まって、選択肢は無限大です。過去のスタイルがリバイバルすることもあれば、全く新しいスタイルが生まれることもあり、人々は自身のアイデンティティを表現するために、ヘアスタイルを積極的に活用しています。
結論
日本のヘアスタイルは、古代の自然な垂髪から、江戸時代の精緻な日本髪、明治以降の西洋化、そして現代の多様な自己表現へと、時代と共に大きく変化してきました。それぞれの時代において、髪型は単なる外見の一部ではなく、文化、社会、そして個人の美意識を映し出す鏡として機能してきました。この歴史を振り返ることで、私たちは日本の豊かな文化と、常に変化し続ける美の追求の精神を再認識することができます。今後も日本のヘアスタイルは、新たな技術や価値観を取り入れながら、さらなる進化を遂げていくことでしょう。
参考文献
[1] Wikipedia. ヘアスタイル. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB [2] ポーラ文化研究所. 日本髪の誕生と変遷. https://www.cosmetic-culture.po-holdings.co.jp/culture/nihongami/001.html [3] QJナビ. 【永久保存版】髪型の歴史150年。美のプロなら知っておきたい明治・大正・昭和のヘアトレンド. https://www.qjnavi.jp/special/sense_skills/hairstyle_history/